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寄り道(糸魚川〜親不知)

matukawafutamata
5月最後の土曜日、ふと思い立って糸魚川へのドライブ。
格好良く言うと、「塩の道」探訪とか「ヒスイの海岸を訪ねて」となるのでしょうが、残念ながら「山菜と蟹と温泉」を求めた超俗っぽいドライブです。(笑)

安曇野市から大町を抜けて白馬から糸魚川へ・・・長野オリンピックのおかげで道路事情は格段に整備され、所要時間がずい分短くなりました。
急ぐ旅ではないので、白馬駅から横道に逸れて久しぶりに松川の二股橋へ。若い頃、何度か渓流釣りに訪れた懐かしい場所です。
少し前の雨に雪解け水が加わった南股は、川幅一杯に流れていました。
私は山の名前に明るくはありませんが奥に迫っている山は唐松岳か不帰か烏帽子でしょうか、いずれにしても、この橋から眺める迫力満点の景色は、「一年に一度は触れたい」景色のひとつです。
ほんの1時間ほど車を走らせるだけで、こんな景色を見ることができるって幸せなことです。

白馬を過ぎると、国道148号線は、姫川に沿って糸魚川に下ります。
姫川は、佐野坂辺りの源流こそ穏やかな小川ですが、この松川の他にも平川、楠川など、多くの谷川を合流させて急峻な激流となるのです。
激流には似合わない、「姫川」というなんともロマンティックな名前の由来は、遠く神代にまで遡るというから驚きです。
詳しくは白馬ハイランドホテルのホームページから、姫川にまつわる昔話を拝借します。

30年も前の話で恐縮ですが、千国部落を流れる姫川の支流「親沢」で岩魚釣りをしていたとき、
「釣れたかい?」
と、近寄って来てくれた老人がいました。
「まあまあです。」
私がビクの中の数匹の岩魚を見せると、
「最近はなァ、堰堤が出来たりスキー場が出来たりで、昔ほどはおらんわ。」
と寂しげに川面を見つめ、
「昔は向こう岸に渡ると、途中で踏んづけた岩魚が浮いたもんじゃ!」
と言って、いたずらっぽく笑ったのです。
国道の、親沢にかかる橋を渡る度に、あの老人の笑顔を思い出します。

親不知の海岸には、曇天の寒い日にもかかわらず「ヒスイ」を探す観光客の姿がチラホラ。
この海岸や姫川には、縄文の時代から今日と同じように「ヒスイ」を求める人が集まっていたのです。
「塩の道」にしたって、舗装や車はもちろん橋だって満足に無い時代から、山を越え、谷を越えて往来していたのですから、人間のたくましさには改めて感嘆します。
・・・そんなことを考えながら、私は海岸に下りることもなく、300円の蟹汁をすすっていたのでした。

小谷温泉の滝
帰路、糸魚川の「フォッサマグマミュージアム」を覗いて(この博物館の拝観料500円は、安く感じましたよ♪)天地創造の歴史に触れた後は、心地よい疲労感を温泉で癒したいと、小谷温泉の「雨飾り荘」に向かいました。
残念なことに、昔山菜が採れた場所には必ず「入山禁止」の看板が立てられロープが張られています。「村おこし」事業で山菜が大切な資源になったせいでしょうか、あるいは山火事防止のためでしょうか・・・
「あわよくば山菜を!」との下心は「入山禁止」の看板に一蹴されてしまいましたが、車窓からの景色は十分に疲れを癒してくれます。
と同時に、あちこちに残るがけ崩れの跡や未だに日陰に残っている雪の塊を見るにつけ、小谷の冬の厳しさを感じずには居られません。

やっとのことで雨飾り荘に到着したのは午後3時を回った頃でした。

駐車場は、他県ナンバーの車で一杯。さすが土曜日です。
すると、またまた残念なことに、
「本日満室。外来入浴は15時まで」
の立て札。
「なんてこった!」
雨飾高原露天風呂
「仕方ない、帰るか…」
と、車をUターンさせたとき、写真の案内が目に入って来たのです。

あわてて車を停めて、露天風呂に向かったのは言うまでもありません。
この案内のすぐ奥に説明看板があって、「料金はいくらでも…」なんて書いてあります。
なんだか入浴前から、心がホッコリしますよね。

森の中に穴を掘って、花崗岩を積み合わせた露天風呂。
源泉かけ流しです。
ちゃんと男湯と女湯があるし、簡素な造りの脱衣場もかえって趣があってイイ感じ。

湯の中の岩に腰を下ろして半身浴をしながら周囲を見回すと、森の中にはこごみやコシアブラやウドブキが散見されます。(やっぱり小谷は山菜の宝庫です。)
男湯より少し高いところに設けられた女湯から聞こえてくるギャルたちの嬌声と山鳥のさえずりとのコラボに聞き入って、至極の入浴タイムを味わえました♪

男の私でも感じるほど「お肌すべすべ感」があって、泉質も温度も最高!
贅沢な一日に感謝!

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常念坊現る!

常念坊・・・と言っても、『雪形』のことなのですが・・・

常念坊」=八面大王の手下の坊さんです。
八面大王が坂上田村麻呂に攻められた際、常念坊は奥山に逃げ延びた…と、伝わっています。

八面大王は、安曇野に残る伝説の主人公。大和朝廷に退治された悪鬼とも、大和朝廷の理不尽な要求に立ち向かったヒーローとも言われています。詳細は後日。

「〜坊」と言う名前からして、伝説の事件は仏教が伝来した後の出来事だったのですね。
未だ「武士」の身分が確立されていなかった時代には、坊さんが武器を持って戦うことは不思議なことでは無かったようです。
あの牛若丸(源義経)に襲い掛かった結果、敗れて家来となったとされる「武蔵坊弁慶」は比叡山の僧兵でした。
その比叡山延暦寺は、僧兵の集団を抱えていて、後に織田信長に攻められました。
寺や寺の財産・領地を守るのは、坊さんの仕事の一部だったのでしょう。

また、元々は「狩猟の道具」だった弓矢や槍が「戦の道具」に変わって行く過程は、狩猟民族が農耕民族の社会に飲み込まれて行く過程と無縁では無いと思うのです。
農耕を覚えた人々はより多くの収穫を得るために「もっと他に、農耕に適した土地が在るのではないか」と考えたり、「より広い農地が欲しい」と考えるのが自然です。
結果、未開の地に探索の手を伸ばすことになり、そこに良い土地が在れば手に入れようとします。
もし、その土地に先住の民がいたら、追い出すか、略奪するか・・・つまり、「」になるのです。
弓矢や槍が「戦の道具」となった瞬間です。

戦後、次々と上映され一世を風靡したアメリカの「西部劇」
新しい大陸で、自分たちの領土を求めて大陸西部の未開の地を開拓して行く…ほとんどがその過程での物語でしたが、その中でインディアン(アメリカ大陸の先住民=狩猟民族)は「白人を襲う野蛮人」であり、「だから殺されても仕方ない存在」として描かれていました。
そして、襲い掛かるインディアンから牧場を守る射撃の名手のカウボーイ(ガンマン)たちが物語の「ヒーロー」でした。(この時代、武器商人は、白人にはインディアンの居住地を教え、インディアンには白人の襲撃計画を密告しては、双方に銃器を売りつけていたのだそうです。今も、同じことが地球規模で行われている様な気がしますが…)
今、インディアンが野蛮人だったと信じる人はいないでしょう。
野蛮人どころか彼らは、人を愛し、嘘はつかず、約束は守り、自然を敬い獲物は必要以上には捕らない、他の部族と争わないで「住み分け」をする…と言った「」を守る、平和主義的な人々だったのです。
狩猟民族にとって、自然破壊や乱獲による獲物の減少や生態系の変化は生死にかかわる大問題だったから「自然と獲物」に関しては特に厳しい掟と畏敬の念があったのではないかと思われます。

野蛮だったのは、むしろ、農耕民族の方だったのです。
農耕を覚えた人々は、領地が欲しければ戦をするし、生活や農耕の邪魔をする動物を敵対視しました。
あるいは、食料としての動物や魚を捕り尽くしてしまったとしても「農作物さえ作っていれば喰いっぱぐれることはない」安心感からか、平気で乱獲もして来ました。
アメリカ大陸での旅行鳩の絶滅はその好い例です。

縄文時代から弥生時代に移りつつあった時代、狩猟民族が農耕民族の社会に包み込まれつつあった時代、日本にも「西部劇」に似た歴史があったと思われます。

農耕技術を得て勢力を増し、収穫量を増やすために領地を拡大したかった「大和朝廷」。
それに素直に従えばよし、従わなければ「」と呼ばれて駆逐された地方の民や「蝦夷」らの先住民。
ところが、「鬼」であったはずの彼らを懐かしむ様な「昔話」や「伝説」、「地名」や「山の名前」が今も全国各地に残っていることこそ、彼らが決して『鬼』などでは無かったことを物語っています。

この安曇野を代表する山「常念岳」(写真)もそのひとつです。
常念坊が逃げ込んだ山だから「常念岳」とも、常念坊の雪形が現れるから「常念岳」とも、常に念仏が聞こえていた山だから「常念岳」なんだとも、言われています。

私は、坂上田村麻呂との戦いから逃れた八面大王の手下(あるいは一族)の一部がこの山の奥地に隠れ住み、殺された仲間たちの霊を弔っていた時期があったのではないか…と、想像します。
だから、山奥では読経の声が聞こえていました。
時々は、食料や酒を求めて里に下りて来た者も居たでしょう。
村人たちは、敵同士だったわけでは無いので、彼らを支援したり交流したりしていたのですが、やがて後の支配者の追っ手が迫って、一族はまた別の土地に逃れて行ってしまった・・・
かつてこの地に「新しい風」を持ち込んで、そして滅ぼされ、去って行った一族。

美しい残雪の中に『常念坊』の姿を見つけた村人たちは、その山に『常念岳』と言う名前を与え、一族との日々を懐かしむ心情を『常念坊の昔話』として子々孫々に語り継いだ、と思いたいのです。

「一体どれが『常念坊の雪形』なんだ?」って、詳しくはこちらをご覧下さい。お恥ずかしいことに私も、最近までは正しく知りませんでした。

                  常念坊の昔話は信濃の民話でどうぞ。

※「インディアン」を、最近では「ネイティブアメリカン」とも言いますが、呼称については論議有るところです。ここでは「インディアン」を使用しました。

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天然のダム湖

天然ダム湖の記事
今朝の「信濃毎日新聞」の1面に興味ある記事がありました。

『平安時代に現在の南佐久郡小海町一帯で発生した山体雪崩で千曲川がせき止められてできた天然ダムの規模が国内史上で最大規模だった、とする研究成果を県内外の専門家がまとめ、26〜28日に長野市で開く砂防学会で発表する。』


というもの。

天然ダムと言えば、新潟中越地震の時の山古志村や、中国四川省の大地震で出現した天然ダムが記憶に新しいところです。
溜まった水を、沢山のポンプを使って懸命に汲み出していましたよね。

『天然ダムの湛水量(たんすいりょう)は黒部ダム(富山県)の約2.9倍にあたり、天然ダムはその後決壊して、東北信一帯が水害に見舞われたと説明。専門家によると、同町内などにいまも点在している巨大な岩はダム決壊で運ばれたとみられる。同郡内の「小海」などの地名も、天然ダムと関係がある可能性が高いという。』


そして、

『これまでの研究では、善光寺地震(1847年)で岩倉山(長野市)付近にできた天然ダムが最大とされていた』

そうです。
以下省略いたしますが、こうなると先の日記にご紹介した信府統記の、
『その昔、安曇野一帯は四方を山々で囲まれた大きな湖であり・・』
も、十分に信憑性のある伝承と言っても良いでしょう。

もう一度ウィキペディア安曇野の鳥瞰写真をご覧下さい。

写真上部が木曽方面になります。
奈良井川が、木曽谷から松本平に流れ込んでいるのがわかります。
その奈良井川が、鎖川、梓川、黒沢川、烏川、穂高川、高瀬川を集めて写真最下部へと流れています。
写真にはありませんが、その他にも小曽部川、田川、薄川、女鳥羽川がありますし、写真最下部から数キロ下流の生坂村山清路までの間にも、会田川、八坂金熊沢が合流し、山清路では麻績川も合流しているのです。
山清路は現在でも、両岸に岩山が迫って、犀川の流れが急に狭まっている所です。

その山清路からさらに下流に在る「久米路峡」は流域で最も川幅が狭い箇所であり、美しい景観と共に「雉も鳴かずば…」の物語で有名ですが、川幅が狭いがゆえに、洪水の度に橋が流されました。そして、その洪水から「久米路橋」を守るための「人柱」の悲しい物語も残されているのです。

太古、山清路は久米路峡よりも狭かったのかも知れません。
ダムも砂防堰堤も無い時代のことです。
もし、木曽から松本平一帯に大雨が続いたとしたら、これらの大小河川が一斉に増水して暴れ川と化したとしたら…今風に言うと「同時多発土石流」です…そして、それを集めた犀川が山清路に襲い掛かったとしたら、果たしてどうなったことでしょう。
荒れ狂う濁流が絶え間なく運んで来る大岩や流木が山清路に堆積した結果、犀川をせき止めて大規模な天然のダム湖を造り得たことは容易に目に浮かびます。
そのダム湖が常に存在したのか、あるいは大雨が続くたびに出現した一時的なものだったのかは分かりません。
しかし、犀川と高瀬川の合流地点に残る「押野崎」とか堀金や松川に在る「海渡」の地名からも、「湖」の様な状態が当たり前にこの地に在ったことは事実と思えます。
しかも、「海渡」の標高から察するに、今日の記事にある湖に勝るとも劣らない規模に達していたことでしょう。
それは想像を絶する規模ではありますが・・・

やがて、何らかの理由で山清路の天然ダムが壊され、「湖」が消え去る日が訪れました。
おそらく、上記の記事と同じ自然な「決壊」があったのでしょう。
人力による「大工事」が行われたとは、ダム湖の規模と当時の技術力からして、考えにくいと思います。

それまで安曇平の低地を占めていた湖(or湿地帯)が消えて、農耕用地を得た喜び。
人々は「神」あるいは「竜神」のおかげだと、感謝したことでしょう。
それは善光寺地震よりもはるか昔。
文字を残せなかった時代のことと思われます。
人々は、喜びと感謝の気持ちを「口伝」で語り継いだのです。

そんな出来事が「泉小太郎伝説」の起源ではなかったかと、今朝の新聞を読みながら太古に思いを馳せた次第です。
一説によると、「泉小太郎伝説は安曇族による安曇平開拓の物語」らしいのですが、果たして真実はいかに。


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松本平と水

鏡田強風、黄砂、時ならぬ降雪と真冬並みの冷え込み・・・荒れに荒れた3月4月が過ぎて5月に入った途端に、まるで天も大型連休を知っているかのような五月晴れです。

連休に入ると田には水が引かれ、それぞれの水面に残雪の北アルプスと青い空とを映す鏡田となって、安曇野の美しい風景を一層引き立ててくれています。
この風景を見る限り『安曇野は水に恵まれた、豊かな田園地帯』だということを疑う人は少ないと思います。

松本市内には「清水」「源池」「沢村」「渚」「宮淵」「野溝」など「水」にまつわる地名がいくつか在りますし、安曇野市は湧水を利用した「ワサビ田」やニジマス等の「川魚の養殖」で有名です。
しかも、渇水に備えて造られる「溜池」を滅多に見かけません。
ですから、松本平(安曇野を含む)は『水に恵まれた土地』というイメージが強いですし、確かに現在は、そのイメージ通りの土地だと言って良いでしょう。

渓流釣りにハマっていた若い頃、松本に越して来て間もなかった私は、未知の渓流への釣行を重ねるうちにあることに気付かされたのです。
若いサラリーマンだった私の釣行は、大抵日曜日と決まっていました。
週休二日制なんて無い時代。日曜日は貴重な休日でしたから、必ず金曜日や土曜日に川の様子をチエックしては釣行先を決めていたのですが、当時の日記には、こんなことを書いていました。
「薄川、水無し。雨が待たれる。」
「芦間川、烏川、共に水量無く釣行諦め。」
これは、実にお恥ずかしい、無知故の日記でした。

結論を書きましょう。
松本市も、安曇野市も扇状地です。
扇状地の河川は、源流部には相当な水量が有りながら途中で地下に浸透してしまうので、中流部では干乾びた状態になってしまうのです。
市街地の水の無い川を見ては「これでは釣りは無理だ」と判断していたことは大きな間違いで、上流部ではちゃんと釣りが出来たのでした。
川の水が、流れながら浸透して干乾びてしまうくらいですから、「溜池」が見当たらないのも道理です。
つまり、安曇野を含む松本平一帯は、「溜池を造る必要が無いほど水が豊富だった」のではなくて、実は『溜池さえも造れず、水の確保に大変な苦労していた』土地だったのです。
そして浸透して伏流水となった水が、低地(松本市内や穂高、明科)に至って「湧水」となって地表に現れているのです。
「湧水」は、今でこそありがたい資源ですが、昔は湿地や沼を造っていたに過ぎなかったのではないでしょうか。
長嶺山から太古の昔から人々が住み着いた中流域(…扇状地の上部)は、河川の氾濫の危険からは身を守れたものの、常に「水不足」という宿命を抱えていました。
そしてその宿命は、人々に想像を絶する「」との戦いと、水を奪い合う「人と人」との戦いを、1000年もの長きに渡って強いて来たのです。

そんな戦いに終止符を打って現在も安曇野を潤し続けてくれているのは、今から200年ほど前から、先人たちがそれこそ命がけで、死に物狂いで造って来た「新田堰」「矢原堰」「勘左衛門堰」「拾ヶ堰」と呼ばれている、人口の灌漑用水なのです。(参考=安曇野水土記(水土の礎)
その安曇野水土記には、

安曇野は、松本平の大半を占めるなだらかな地形でありながら、水のなさゆえに、過去長い間、不毛の大地だったのである。

と、あります。さらに、

信府統記』という古い書物には「信濃国有明の里は景行[けいこう]天皇12年まで湖であった」という意味の記述がある。
景行天皇といえば日本武尊[やまとたけるのみこと]の父。
その昔、安曇野一帯は四方を山々で囲まれた大きな湖であり、泉小太郎[いずみこたろう]という男が生坂[いくさか]村の山清路[さんせいじ]というところを切り崩して今の犀[さい]川に流し、安曇野の大地が誕生したという伝説も語り継がれている。
泉小太郎は、安曇[あづみ]族であったといわれている。
安曇族 ―――古代日本を代表する海人[あま]族・安曇氏。

との大変興味深い記述もあります。
泉小太郎の昔話については、後日改めて…。

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芦間川

芦間川中流域
山麓線を鼠石から更に北に走ると「トンボ玉博物館」「すずむし荘」「いわさきちひろ美術館」「国営アルプスあづみの公園大町・松川ゾーン」などの観光スポットにつながっています。
「トンボ玉」の直ぐ手前で短い橋を渡りますが、その川が芦間川です。

安曇野の河川はみな水が澄んでいますが、花崗岩帯のせいでしょうか、中房川も乳川もこの芦間川も川が白色で、川底の石を数えられるほど透き通った美しい清流です。(岩魚も、白く美しい魚体をしています)
有明山から流れ出している芦間川は、馬羅尾高原を縦断、この橋の下流の神戸原で乳川に合流しています。

橋から上流を望むと、写真のように幾重にも連なる滝が見えますが、これは砂防堰堤で、上流に行くほど堰堤はどんどん大型になるのです。
「美しい流れを、ここまでコンクリートで固めなくても!」
「こんなに堰堤が無ければ、もっと岩魚が増えるだろうに。」
と、釣りのことしか頭に無かった頃には、ずいぶん恨めしく思ったものでした。
しかし、赤松と熊笹が密集する原生林の中には、源流から流されて来たと思える大きな岩が広範囲に点在していて、芦間川が相当な暴れ川であったことを教えてくれます。

地元の長老に訊くと、
「昔は、水が出るたびに神戸原の田んぼが流された。」
「そうなると、みんなで復旧の手伝いをしたもんせ。」
「堰堤工事には東京の土建屋が来て、地元の衆も駆り出されたもんだ。」
と言います。
そして、現在の神戸原は美しい水田地帯と住宅地になっています。

こういう話を聞くと、昭和の治水事業が堰堤やダムに頼り切ったことも、地元の人々の土地を守ると同時に収入にもつながっていた点で、いたし方なかったのかな?とも思えるのですが、方や、土砂を堰き止めたために、日本の海岸線から砂浜が減ってしまっている残念な現実もあるのです。





同時に、堰堤を造っては砂に埋まり、また造ってはまた埋まり・・・結果として「人造の滝」だらけになってしまった渓流が二度と昔の姿に戻らないことは、紛れも無い事実なのです。

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